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6年前の自分を振り返って

自分が昔書いていたブログの記事を転載して、
最後に今の自分がコメントを付けるシリーズ



人間嫌いのゲイの日記(2007年)から



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お久しぶりです。

まずは今までコメントくださった皆さん、ありがとうございます。

返事もせずにすみません。


もうコメントくださったこと自体お忘れでしょうけれど、少しずつ

お返事しようと思います。




結局わたしは死んでいません。のうのうと生き続けています。

前の更新から1年と2ヶ月くらいでしょうか。




むかしの人の名言に、


「あの男は本当に17年の経験があるのか。

  1年の経験を17回くり返しただけではないのか。」


なんていうのがあった気がしますが、まさにそんな感じで、

1ヶ月を14回くり返した気分です。




それでも、改めて自分が書いた記事を読んでみると、

「こんなこと考えていたっけ?」

と不思議に思うこともあり、考え方と言うのは意外と変わるものだと

思います。





僕は「時間が解決する」という言葉を信じていませんでした。


純粋に時間の経過によって解決される事柄なんて無くて、時間ではない

他の要因によって解決されるか、あるいは単に当事者が問題そのものを

忘れることで解決されるものがほとんどだと思っていました。




しかし、最近、時間の経過が自分の意識や考え方を変えた場面に出くわし、

たいへん新鮮な驚きを感じたのです。



その驚きをどこかに書いておきたい、じゃあ久々に記事でも書こうと

いうことで突然ブログを再開した次第であります。




詳しいことは次回以降に書きます。



(以上)

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生きても陳腐、死んでも陳腐

の記事を書いてから私はブログの更新をぱったり止めたのでした。


中断しているあいだ、自分のブログにアクセスすらしていなかったのですが、
久しぶりに記事を更新しようと思って自分のブログを訪れてみると、
真面目なコメントが沢山ついていて驚きました。



「死ぬ前に私のブログに来なさい」

とか

「私は医療従事者ですが、どんな死も決して陳腐ではありません。
 それはあなたの死にも言えることです。」

とか。


たぶん、私が本当に死んだと思われていたんでしょうね。



さすがにそれらのコメントを全く無視して新しい記事を書くわけにもゆかず、
この記事を書いたのでした。



「詳しいことは次回以降に書く」と書いていますが、

この後どんなことを書いたのか思い出せませんし、もしかすると何も
書かないままブログが削除されてしまったかもしれません。



結局、ブログ『人間嫌いのゲイの日記』に投稿した記事のうち
原稿が残っていたのは4つのみでした。



いま思えば、『人間嫌いのゲイの日記』は、私が初めて自分自身の悩みに
ついて打ち明けた場でした。


当時は、ブログが流行っていた時期で、ブログが双方向性のある情報発信
ツールとして活用されており、私の拙い記事にコメントを下さる方も多く
いらっしゃいました。



当時の私の生きる理由は、

『自分の秘密、悩み、ダメな部分を誰にも漏らさず墓場まで持ってゆくこと』

しかありませんでした。


人一倍長生きをして、自分の素性を知る人間がこの世から誰一人いなく
なって、終いには自分自身もすっかりボケちゃって自分のことを全く
思い出せなくなるのを理想としていました。


そして、そうした理想を抱く自分をひどく嫌悪し、

「このままではダメだ」

と危機感や罪悪感に押しつぶされそうになっていたように思います。



そうした意味では、自分の素性を少しずつ漏らす場、いわばガス抜き
の場としてブログには一定の意義がありました。


このブログを書いた2年後くらいに、私のダメな部分が一気に露呈する
こととなるのですが、当時の私はそんなこと知る由もありません。


仮に、ブログでのガス抜きを経ずに2年後の『自分の価値の大暴落』を
経験していたとしたら、果たして自分は耐えられただろうかと思います。




しかし、一方でガス抜きを行ったことに対して否定的な考えも持っています。



先ほど、私はこう書きました。


“当時の私の生きる理由は、

『自分の秘密、悩み、ダメな部分を誰にも漏らさず墓場まで持ってゆくこと』

しかなかった”


では、今の私の生きる理由は何かというと、特に何もありません。



しかも、生きる理由がないことについて、

「そういう人もいて当然だし、たまたま自分が“そういう人”になっただけ」

と、妙に達観しちゃっているんですね。



自分を偽ろうとしていた頃の私には、暗いエネルギーが満ちていたように
思うのですが、

自分のダメな部分が露呈してしまった後は、すっかりそのエネルギーが
無くなってしまいました。




精神科の診察室で

「年を重ねるにつれて隠し事が増えるような気がして、つらいです。」

と打ち明けた日の主治医の反応が忘れられません。



多数のメディア取材を受ける県内有数のクリニックを30代で開業した彼は、

心の底からあきれた様子で言いました。




「そんなの誰だってそうだよ」





私ってばかだな、先生の言うとおりだと本当に思います。


誰だって後ろ暗い部分はあって当然で、それを隠そうとするエネルギーを
学業や仕事にぶつけるからこそ、ひとかどの人物になれるのです。


ダメな部分をひたすら隠して、将来いい仕事をするために邁進していれば
そっちの方が結果的によかったんじゃないのかと反省する自分がいます。



くだらない自意識のために人生を無駄にした。


“ガス抜き”なんて言って、あたかも自分の意志でダメな部分を小出しに
したように書いているが、本当はただの“ガス漏れ”だったんじゃないか。

自分ではコントロールできない衝動に駆られて、うっかりブログで余計な
ことを書いちゃっただけじゃないか。


ガス漏れの結果の大爆発ならあまりに情けなくて笑えない。



今となっては、そういう否定的な思いが強くなっています。



もっとも、こうして思い出話のように書いて自省することができるのは、
ダメな部分が露呈する経験を経たからこそできるのだ、

ということは十分に理解しているつもりです。


ダメな部分が露呈して、落ち着くところに落ち着いたというだけの話
なのかもしれません。


“落ち着いた”ことについて好評価をする人もいるでしょう。




しかしながら、“落ち着く”ということは、つまり、

『現在の自己像をある程度不変のものとして受容すること』

ですから、


自分嫌いの私には到底受け入れ難いことなのです。



結局、つくづく私は自分が嫌いなんだなと、話が最初に戻って
しまうのでした。


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生きても陳腐、死んでも陳腐

自分が昔書いていたブログの記事を転載して、
最後に今の自分がコメントを付けるシリーズ



人間嫌いのゲイの日記(2007年)から



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私は、記事を公開したあと、自分の記事を眺めて
反論を考えるんです。
(そんなことしているから更新が遅いんでしょう)



―――自殺したら自分の本当の価値がバレると思うと
    怖くて死ねない。


でも、よくよく考えると、




私が死んでも、私の本当の価値はバレないかもしれないですよね。


人は往々にして思い出を美化しがちだから、私の価値を示す
ような「証拠」に気づかないかもしれません。




さらに、「本当の価値」とひと言で言っても、その価値は値段を
つける人によって、また評価する観点によっても違うから、必ずしも
低い評価になるとは限りません。


私は、世間一般の感覚からして自分に価値があるとは思えませんが、
こんな私に価値を感じるような奇特な人も、いないとはいえません。





また、両親は私に16年という時間と、2000万円以上のお金を
費やしているのは重い事実ではあるけれど、



私が死ぬことが、必ずしも両親の貴重な時間とお金を奪う
とは言えないかもしれません。




たとえば、私が仮に死んだとしても、宗教は


「息子さんの死はご両親の人生にとって意味のあることなのです」

などと囁きかけるかもしれません。
これに両親は納得するかもしれないし、しないかもしれない。


そのうち、両親は

「息子が死んでくれたおかげで、全知全能の神・ホラエモンさまから
 幸せに生きるきっかけを与えられたのです!!」

とまで言い出すかもしれない。





要するに、自分の死後のことは、完璧な予想ができないのです。


私はひどく取り越し苦労をしていました。




「死後のことは分からない。だからこそ死んでみる意義がある」


ひょっとするとこういう結論もあり得るのかもしれません。










しかしちょっと考えただけで、この考えは容易に否定されます。




なぜなら、



私の死は、究極的に陳腐だからです。






人間が嫌いで引きこもるようになり、
そのまま自殺。



人生に絶望した青年が自殺。



自分を偽り続けた人間が、苦しくて自殺。



青年が同性愛を苦にして心を病んで自殺。




あまりにステレオタイプな、あまりに陳腐な結末では
ありませんか!






しかも上に挙げたような種類の自殺は、
多くの場合報道されません。

公共性がないからです。




あまりに陳腐な私の死には、何の価値も公共性もないのです。





私は



生きても陳腐、死んでも陳腐



なのです。






そう考えると、死のうとすることが実に
バカらしく思えてくるわけです。

(やっぱり人間の価値は死ぬときに決まるんですね)




なんだか、死ぬことについて考えれば考えるほど、
自分が実際に死ぬことから離れていく感じです。





「リストカットを繰り返す」という奇妙な表現が
よく見られるのもなんだかわかる気がします。


本気で死ぬときは、感情に任せて「えいっ」と行った方が
いいのだと思います。


死に自分から少しずつ近づこうとすればするほど、
実際の死からは遠ざかるものなのでしょう。






さて、死について考えたあげく、袋小路に陥った人間は
その先に何を考えるのでしょうか。






(余談ですが、自殺する思春期の同性愛者は一定数いるようです)
http://ww35.tiki.ne.jp/~yossyossy/w_ribbon1.html



(以上)

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う~ん、私にとって非常にコメントを付けにくい記事です。


今の私が『陳腐に生きている』こと、加えて、そうすることを
ここ6年のあいだ惰性で選択してきた事実を前にすると、
何も書くことがありません。


6年前の私と今の私を比べて、決定的に違うの点は、6年前は
『守りたい私』がありましたが、今の私には無いということですね。



なんだか、今まで大切にしていた色々なことが、この6年でどうでも
よくなってしまった感じです。


そうなってしまったことについては、良いとも悪いとも言えませんが、
新鮮な感覚ではあります。



その新鮮な感覚を体験することができたのは、私が生きていたからこそ
なのでしょうけれども。


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自分の価値の粉飾決算

自分が昔書いていたブログの記事を転載して、
最後に今の自分がコメントを付けるシリーズ



人間嫌いのゲイの日記(2007年)から



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自分の価値の粉飾決算



「私が、この現実の世界で自分の価値をごまかし
 続けるには生き続けるしかないのだ」


16の私はそう思いました。




「死んだら、私が豊かな人間関係を築けなかったことや
 冷たい人間観・人生観をもっていたことがバレてしまう」







「別に死んだあと誰からどう思われようといいではないか」

「第一、死後に自分のことを思い出すやつなんていないだろう」



私は考えました。






自分が死んだら、クラスメイトは

「ふーん」とか
「人生に負けちゃったんだね」とか
「そんな風には見えなかった」とか

大して気にかけないだろうな~

でも、「人生に負けちゃった」はちょっと悔しいな。



そうだな、N君とH君とS君は、もうちょっと踏み込んで

「そういえばよく考えると、一匹羊とこれといって思い出ないな」
とか
「ま、思い出してみると根暗そうなヤツではあったな」
とか
思うかもしれない。






こんな感じで、知り合いを思い浮かべながら、

なぜ、自分の本当の価値をバラしたくないのか考えました。



「負け犬と思われるのがイヤ」

「あいつは自殺するようなヤツだったのか。想像はつくけどね」
と思われると、今までのごまかしが無駄なような気がしてむなしい。


などの理由もありましたが、




一番は、


「両親に、本当の自分の価値を知られたくなかったから」です。



両親は、自分に関する情報をたくさん持っているはずですから、


「そういえばあの時・・・」

というように、
自殺という結果から、私の実態を明らかにする思い出を
多く持っている恐れがありました。
遺品を整理するのも両親です。





私は、「両親の中の自分」を守りたくて仕方がありませんでした。



両親は私に16年という時間と、2000万円以上のお金を
費やしているのです。


この事実はあまりに重いものでした。



死ぬことで2人の人間から、莫大な時間とお金を奪うだけでなく、

「私が本当は価値のない人間だった」と知らせるのですから、

踏んだり蹴ったりなわけです。


私にはそんなことはできません。





「他人の中の自分」が自分の行動の足かせになることは
よくあることでしょう。


そうだからこそ、私たちはしばしば全く新しい人間関係の
中で自分のしたい行動をするのです。
(あえて遠くの学校に行って○○デビューなんかはよくありますね)



ところが、自分の行動を制限しているのが「両親の中の自分」で
ある場合は、一生ついて回るものですからね。
断ち切るのは難しいことだと思います。





「リセットしたかった。」

と言って、
家に火を放ち、母親と兄弟を殺した高校生が
中等少年院に送致されるようですが、


彼は本当に家族を殺したかったのではなく、


家族を殺し、家を焼くことで、自分、とりわけ

「家族の心の中の自分」を殺した
かったのではないかと私は思っています。














私はここですでに引っかかるわけです。

私は自分について他人からよく考えられるのが嫌いなのです。
嫌いな自分、隠したい自分





他人の中の自分が邪魔で仕方がないのです。



「人間嫌いの人間なんて、社会に必要ではないし
本人も不幸なだけだ。」

そう当時から考えていました。今もそう思っています。


自己否定をしていたわけです。



同時に、
「この世間で生きるには人間嫌いを隠していなければ」

ということもわかっていました。



「自殺したら周りがどんな反応をするか」

それを考えると怖くて死ねませんでした。


「人間の価値はその人が死んだときに決まる」


よく言われるセリフですが、



私は自分の人間としての価値を判断されるのが怖かった
のです。





私は、よくこんな妄想をしていたんです。


「もし私が死んだとき、私は最初から存在しなかったことに
なったらラクだろうに・・・」




ナイフで胸を一突きした瞬間に、私の肉体が消えて
なくなります。


そして死んだとたん、私の部屋の本やCD、その他のガラクタ
が消えるのです。


自分がいた教室からも、棚に置きっぱなしになっている
教科書やジャージ、リコーダーなどが消えます。


そればかりか、私のことを皆忘れてしまいます。



どんな顔をしていたのか

どんな人柄だったか

学校ではどんな活動をしていたのか

もちろん名前も

いつ生まれたかも



誰もまったく覚えていないのです。



私が自殺すると、
私が存在した証拠のすべてが消えるのです。




ああ、なんと言う完全犯罪、
なんと完璧な「自分の価値の粉飾決算」でしょうか。





「私が存在した証拠のすべてが消える」


そんなB級SFのようなことがもし可能なら、
私は今すぐにでも死にたい、そう思っていました。
(いまでも思っています。)





でも、現実は違います。



私が死んだら、やっぱり死体は残るし、

死体の残らない死に方をしても、


遺品をすべて処分してから死ぬのは大変です。

たぶん捨て忘れがあるでしょう。








私が死んだら必ず死体が残ります。



死体が残らない死に方をしても、

遺品を全て処分してから死ぬのは難しい事です。



衣類や本だけでなく、実家の古いアルバムまで
処分しなければなりません。


捨て忘れた日記なんか出てきたら大変です。
いろいろな事がバレてしまいます(笑)


とにかく、「自分の実態」が想像できてしまうような
モノを残してはいけないのです。





死体や遺品といったモノを処分できても、
「思い出」を消すことはできません。



この「思い出」が厄介なのです。

これがある限り、私はあらゆる価値判断をされるのです。



どんな人柄だったか

友達は何人いたか

どんな活動をしていたのか

頭はよかったか


さまざまな「思い出」から「私という人間の価値」が私の
死後に形成されるのです。





しかも、私の死後には「私という人間の価値」を
決めるように促す儀式が待ち構えています。



そう、葬式です。



葬式に来る人数

葬式に来た人

来訪者と生前の私のつながりの深さ

来訪者が私について語る内容の量と質

私の生前の活動






そのような事柄から
私の価値が測られると思うと、恐ろしくてたまりませんでした。

(葬式で故人の価値などいちいち考える余裕はない
 と知ったのは高校3年に祖父が亡くなったときでした)




葬式のあとも、遺品の整理など、
ことごとく私の価値を測ろうとするイベント満載です。


その後も四十九日、一周忌、果てには十三回忌まで、

いったい何度私のことを思い出すのかという感じです。





「私が、この現実の世界で自分の価値をごまかし
 続けるには生き続けるしかないのだ」


そう思いました。



(以上)

-----



この記事は、ちょうどライブドアの粉飾決算がニュースと
なっていた時期に書かれたのだと思います。

長い記事ですねぇ。



思うに、当時は『自分の価値を偽ることができている』という
ある種の自信があったからこそ、こういう記事が書けたんでしょう。




今は、『自分に価値のないことがばれちゃったらどうしよう』
なんて考えませんね。



といいますのも、この記事を書いてからの6年間は、


留年、就職活動全敗、就活による50万円の赤字、赤字補てんのための
怪しいビジネス立ち上げ、就職浪人、ニート、ひきこもり、
精神科通院、


と、散々な経験ばかりしてしまいましたから。





要するに、死なずとも自分の価値の粉飾決算がばれちゃった(笑)

んですね。ははは・・・



ときどき思うのです、もし自分の価値の粉飾決算をそのまま続けて
いたら今頃どうなっていたのだろう、と後悔まじりに考えます。



今思えば、私の言う『自分の価値の粉飾決算』は、健全な営みで
あるとさえ思うのです。




社会心理学では『自己』についても研究の対象となりますが、


私の言う『自分の価値の粉飾決算』は自己呈示という概念と
近い気がします。



そうだとすると、別に悪いことでもなんでもない、むしろ、



その後の6年間の数々の失態の方こそ、社会へ出るために
わざわざ不利な条件を自分につける、


つまり、不健全なセルフ・ハンデキャッピングとして
非難されるべきではなかろうか、と思うのです。




私が人間嫌いの若い人に言いたいのは、

今の自己イメージにこだわることなく、
積極的に自分を演じた方が良い


ということです。



そうして、他者に対して違う自分を見せ続けることで、
自己イメージも変わってくる、難しい言葉でいえば、

自己呈示の内在化、が起こるわけです。



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人間嫌いになったきっかけ

自分が昔書いていたブログの記事を転載して、
最後に今の自分がコメントを付けるシリーズ



人間嫌いのゲイの日記(2007年)から


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私にとって、自分がワキガであることを知ったのは本当にショックなことでした。

そして、それを友人に指摘されたのも大変ショックでした。




まず、「自分が異質な存在としていじめられる恐怖」がグンと増大しました。



ちょうどその半年前に、体臭が原因で(もちろん他にも原因はありましたが)仲間はずれにされ、転校して行ったクラスメイトがいたのです。


彼と同じように、仲間外れにされるのではないかとすごく不安でした。



(ちなみに、彼の臭いは体臭ではなく、実は部屋を閉め切ってかなりの量のタバコを吸ったら、そういう臭いが衣服につくのだ、ということを私が知ったのは高校生になってからです。彼には悪いことをしました。)




第2に、「どうしても隠したいこと」が初めてできて困りました。


今でこそ隠したいことだらけの私ですが(笑)、ワキガは私にとって初めてできた隠し事でした。それまでオープンな性格で、隠し事をするという経験がなかったため、私はひどく動揺し、対処に困りました。





私は、母からもらったギャツビーを使い始めました。


とてもスースーして気持ちよい使用感でした。



ところが、スースーするだけで、汗の臭いを押えてはくれませんでした。

しかも、汗をかきたくないと思うとよけいに汗が出てきてしまうのです。




私は参りました。。

「制汗料が効かない・・・」


当時は、市販されている制汗料の性能が今ほど高くはなく、気休め程度の
効果しかなかったのです。




幸いなことに、私がいじめられる事はありませんでした。

今考えても、本当にクラスメイトには恵まれた、幸運なことだったと思います。





しかし、私はにおいを気づかれたくないあまり、自意識過剰になり、
少しずつですがクラスメイトと距離を置くようになってゆきます。






加えて、徐々に母に対して不信感が芽生えてきます。



母のワキガが遺伝したからではありません。
もちろんその理由も少しはあったのですが、それ以上に


「なぜ、もっと早くに教えてくれなかったんだろう。」
「どうして、母子共通の悩みにもっと真正面から向き合ってくれなかったのだろう」

という理由の方が大きかったです。





私は、母を嫌うようになりました。

とは言っても、真正面から「嫌い!」という感情をぶつけるのではなく、
心の中で徐々に嫌悪感を増幅させていました。








ある日、私はハッとします。


嫌っている母と、自分がよく似ていることに気づいて驚愕しました。



ワキガが似ているだけでなく、自分の感情に真正面から向き合わないところ、
その他いろいろな点で私と母は似ていました。





私は泣きました。
痛いとか、悲しい、とか、叱られて泣くとかいう理由ではない涙は初めてでした。



自分がなぜ泣いているのか、戸惑いながら私は思います。



「ああ、母が嫌いなのは俺に似ているからなんだ。」

「母というフィルターを通して自分を嫌っている。」

「俺は自分が嫌いなんだ。」





こうして、私は自分が嫌いになってゆきます。






人間嫌いの人間が一番嫌っているのは実は自分である、と
今でも考えています。




ちなみに、自分の体臭に関して、今と同じくらいレベルに自意識が薄れてくるには、

高校3年生のとき、エージープラスという優秀な制汗料が発売されるまで

約4年かかりました。


(以上)

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今でこそ優秀な制汗料のおかげで気にすることはなくなりましたが、
中高生の時期、私にとってワキガは最大の悩みでした。


お恥ずかしい話ですが、私は自分のワキガ臭をいい匂いだと思って
いたのですよ(笑)


まぁ、無理もない話です。幼いころから私の面倒をみてくれた
母の匂いと同じだったんですから。



「おかあさんて いいにおい」


ってやつですよ。

(『おかあさん』  作詞 田中 ナナ 作曲 中田 喜直)



だからこそ、本当にショックでしたし、

「自分が経験したのと同じ苦しみを子供にも味わわせるとは!」

と憤ったのでした。



私は今でも、自分と同じ失敗や苦しみを経験しないようにフォローして
あげるのが年上の人間の務めである、と考えています。



それから、人間嫌いの人間が一番嫌っているのは実は自分である、
という考えも変わっていないですね。


自分も他人も嫌いな人間嫌いなのか、
自分のことは好きだけれど、他人のことは嫌いな人間嫌いなのか、

人間嫌いはこの点で大きく2種類に分類されると思っています。


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人間嫌い3級

Author:人間嫌い3級
日本の片隅でひっそりと暮らす人間嫌いです。
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