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弱く頑なな人間がどうしても言えない一言

自分が昔書いていたブログの記事を転載して、
最後に今の自分がコメントを付けるシリーズ



人間嫌いという才能(2009年)から



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弱いくせに頑固で素直じゃない人間がいる。

他者がどんなに励ましても、それを払いのけるかのような態度をとる人だ。


彼らは一様に、何かを隠そうと守ろうとしているように見える。


彼らは何を隠したいのか。




弱いくせに頑固で素直じゃない人間、私もその一人である。


私にはどうしても言えない一言がある。



「いっそ殺してください。」




こんなナンセンスなこと言えないのは当たり前だ。

聞かされる方もうんざりするだけである。


しかし、ちょっと油断をするとこのセリフが出てきそうなので、

油断しないように常に注意をしていなければならない。

その結果として、頑なに見えてしまう。




私の勝手な憶測だが、弱いのに頑なな人は、

自分にナンセンスな考えがあると認めたくなくて、

あるいは他者に隠したくて仕方がないのではないか。



そういう人はどうすればよいか。


ナンセンスな考えを自覚するだけで十分だと思う。


「ナンセンスな考えを抱くのも仕方がない」と

自分で潔く諦める、それだけでいい気がする。


他者のことは気にしなくて良い。



なぜなら、ナンセンスであると自覚している以上、

そうそう自分の口からその考えが漏れるとは思えないし、

また、万が一漏れてしまったとしても、他者は理解できないからだ。



理解不能だからこそナンセンスなのである。

ナンセンスを口にしてもスルーされるか、驚かれるか、笑われるかのどれかだろう。


仮に、驚かれたり、笑われたりしても心配する必要はない。

時間が経てば皆忘れてしまう。人は理解できないものは記憶できないからだ。




(以上)

-----



「いっそ殺してください。」

この一言を言えなかったのは、それがナンセンスだからだと書いていますが、

それは違うと思います。


当時の私の状況を考えると、このセリフは完全なナンセンスとまでは
言い切れなかったでしょう。


「いっそ殺してください。」とつぶやくのもあり得る状況だったはずです。


ちょっと見栄を張っていたのかもしれませんね。





もう一点。


『自分にナンセンスな考えがあると認めたくない、または他者に隠したい
 人は、ナンセンスな考えを自覚するだけで十分』


と書いていますが、当時の自分の行動を考えると説得力がないと思います。


と言いますのも、このころの私は精神科で集団療法を受けていたのですが、
グループミーティングの場で



「両親には全く感謝していません」

とか

「これ以上知り合いを増やしたくないから働きたくないです」

とか

「自分の遺伝子は滅ぶべきだから、子供は絶対欲しくありません」


とか、ナンセンスな考えをしゃべっていましたから。


『ナンセンスな考えを自覚するだけで十分』などとブログに書いていながら
一方で、ナンセンスなことを他者に対して話していた、まったくの
言行不一致であります。



思うに、この記事は自分に向けて書いた記事だったのでしょう。

ナンセンスな考えを持っていることについてこれ以上悩んでも仕方ない、

と自分に言い聞かせる目的で書いたのだと思います。



仮に、いま同じテーマで記事を書くとしたら、結論はこうなります。



『どんな馬鹿げたことや非常識なこと、暗いことを話しても
 許される場を見つけて、そこで話してみなさい』


まずは、自分の素直な感覚を話してみる経験が必要なのではないかと
予想します。



当時の私にせよ、グループミーティングでナンセンスな考えを話して

看護師が顔をしかめたり、ほかの参加者から私の発言がスルーされたり
した経験があったからこそ、


「あ~これはもう自分で諦めるしかないんだな」


と思えるようになったわけですから。



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人間嫌いが寂しさを感じるとき

自分が昔書いていたブログの記事を転載して、
最後に今の自分がコメントを付けるシリーズ



人間嫌いという才能(2009年)から



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私は誰かと会いたいと感じることがほとんどない。

もちろんゼロではなく、

年に4日くらいは人が恋しくなっている気がする。



一人で居たいのならそれでいいじゃないか、と思われるかもしれないが、

私は一人で粋がっていられるほど強くはない。



人が恋しいと思うことはなくても、周囲との感覚のズレが日増しに

大きくなる寂しさ・不安は常に感じてきた。

また、正直に告白すると、周囲の感覚に合わせるのが歳を重ねるごとに

億劫になった。



嬉しくないことを嬉しいと言ったり、羨ましくないことを羨ましいと言ったり

そういうことが辛くなってしまった。


言うまでもなく、こんな事は誰でも経験するものだと思うのだが、

私はそういう演技が際立ってヘタクソだった。もうね、バレバレ。




人間は●●のとき嬉しさを感じる。

人間は▲▲のとき嬉しさを感じる。





いくら覚えても「嬉しさ」の本質はわからなかった。




人間は■■のとき羨ましさを感じる。

人間は××のとき羨ましさを感じる。





いくら覚えても「羨ましさ」の本質はわからなかった。





せいぜい、プラスの感情なのかマイナスの感情なのか把握するのが

やっとだった。



加えて、



中学3年くらいだったか、クラスの皆が関心を持っていることに関心が

持てていない自分をはじめて自覚してとても不安になった。



(以上)


-----



保存されていたテキストファイルはここで終わっていますが、
おそらく続きがあったはずです。

たぶんこんな感じの続きのはず。






高校生になって、高校デビューをすることが
ちっとも楽しみでなかった。

高校生になって、放課後にカラオケ等で遊びに出かけることが
ちっとも楽しみでなかった。

高校生になって、交友範囲が広がり、他の学校にも友達ができることが
ちっとも楽しみでなかった。

高校生になって、夜の帰宅時間を遅くしてもいいことが
ちっとも楽しみでなかった。

高校生になって、異性からモテちゃうことが
ちっとも楽しみでなかった。


周りの皆が期待している高校生活というものに関心を持つことが
できなかったのである。


そして、そんな自分がとても孤独だと感じ、寂しく思うと同時に
不安を感じるようになった。



自分がワキガであることをきっかけにして『自分が他者と違うことの恐怖』を
知ってしまった私は、自分の考えていることが同級生と違うことを
とても不安に思っていた。


「高校に入ったら、完全に“非主流派”になっちゃうな」

「いじめられないだろうか」

「永遠に中学生でいいのに」


こんなふうに考えていた。


私のように他者との違いに怯える少年にとっては、規則に縛られ、
画一的、隷属的に生活する方がずっと楽だったのである。






うーん、こういう感覚が今となっては懐かしい気がします。

もちろん、今の私はいわゆるサラリーマンをしていますから、他者との
大きな差異が見出せない生活を送っていることも影響しているでしょう。


しかし、それ以上に

『他者との差異がある → 生活が脅かされる』という思い込みによる

恐怖がなくなったことが大きいですね。



高校までの私は、

『他者との差異がある → いじめられる』
と考え怯えていましたし、


大学時代から現在までの私は

『他者との差異がある → 社会から排斥される』
と考え怯えていました。



今の私は、

「たとえ他者との差異があっても、何とか生きていけるかもしれない」

こと、また、

「たとえ社会から排斥されたとしても、最後は生活保護に頼ることができる」

ことを身をもって知ったので恐れがなくなったのです。



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ナンバーワンにならなくてもいい

私たちがもともと特別なオンリーワンかどうかは別として、
私たちの多くはナンバーワンにならなくても生きて行けます。


そんなの当り前だろうと思われる方もいるかもしれませんが、

周囲の人間から否定されて育った青年たちの中には、いつの間にか
「生きて行くこと」がものすごく高いハードルだと感じてしまう若者もいる
のではないでしょうか。



私なんかも、周囲の大人たちから

「そんなことでは社会でやって行けない」
「もっと人の中で揉まれないとだめだ」

などと厳しいお言葉をずいぶん頂戴しました。


もともと自分が嫌いだったことも手伝って、


「自分は世間で淘汰されちゃうんだ」

「自分のような無価値な人間がお金を稼いでいいはずがない」


などと考え、しまいには


私のような人間が社会に出て仕事をし生きて行くためには、人間嫌いを直し、
高い職業能力を身に着け、ドンピシャで自分に向いている仕事を見つけなければならない、


と思い込み、社会に出るためのハードルを自分の中で勝手に高くしていました。



自分の思い込みが正しくないと気付いたのは、組織の中で仕事をするように
なってからのことです。



いま、私は自分に全く向いていない仕事に就いています。



どんな仕事かというと、生活困窮者に対する相談援助の仕事、

簡単に言うと福祉の仕事です。



「人間嫌いが福祉の仕事だなんてちゃんちゃらおかしい」


そう思われるかもしれません。まったく同感です。

仕方ないでしょう、訳あってこの仕事に就かざるを得なかったのです。



私はこの仕事が自分に向いていると思ったことは一度もありませんし、
ましてや、この分野で自分がナンバーワンになることなどありえないと思っています。


仮に同年代の同業者100人を集めたとして、私の順位は70~80位くらいでしょう。



それでもなんとか食べていけるのです。



大丈夫、世の中には30歳・処女なのにエロ漫画を描いている人もいます。







人間嫌いの若者の皆さん、たしかに私たちは生きることに向いていません。

でも、運と環境と能力次第でなんとかなるはずです。


『人間好き』の大人たちはあれこれ言うかもしれませんが、臆することなく

社会に出て、そこそこ活躍できるよう頑張りましょう。



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6年前の自分を振り返って

自分が昔書いていたブログの記事を転載して、
最後に今の自分がコメントを付けるシリーズ



人間嫌いのゲイの日記(2007年)から



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お久しぶりです。

まずは今までコメントくださった皆さん、ありがとうございます。

返事もせずにすみません。


もうコメントくださったこと自体お忘れでしょうけれど、少しずつ

お返事しようと思います。




結局わたしは死んでいません。のうのうと生き続けています。

前の更新から1年と2ヶ月くらいでしょうか。




むかしの人の名言に、


「あの男は本当に17年の経験があるのか。

  1年の経験を17回くり返しただけではないのか。」


なんていうのがあった気がしますが、まさにそんな感じで、

1ヶ月を14回くり返した気分です。




それでも、改めて自分が書いた記事を読んでみると、

「こんなこと考えていたっけ?」

と不思議に思うこともあり、考え方と言うのは意外と変わるものだと

思います。





僕は「時間が解決する」という言葉を信じていませんでした。


純粋に時間の経過によって解決される事柄なんて無くて、時間ではない

他の要因によって解決されるか、あるいは単に当事者が問題そのものを

忘れることで解決されるものがほとんどだと思っていました。




しかし、最近、時間の経過が自分の意識や考え方を変えた場面に出くわし、

たいへん新鮮な驚きを感じたのです。



その驚きをどこかに書いておきたい、じゃあ久々に記事でも書こうと

いうことで突然ブログを再開した次第であります。




詳しいことは次回以降に書きます。



(以上)

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生きても陳腐、死んでも陳腐

の記事を書いてから私はブログの更新をぱったり止めたのでした。


中断しているあいだ、自分のブログにアクセスすらしていなかったのですが、
久しぶりに記事を更新しようと思って自分のブログを訪れてみると、
真面目なコメントが沢山ついていて驚きました。



「死ぬ前に私のブログに来なさい」

とか

「私は医療従事者ですが、どんな死も決して陳腐ではありません。
 それはあなたの死にも言えることです。」

とか。


たぶん、私が本当に死んだと思われていたんでしょうね。



さすがにそれらのコメントを全く無視して新しい記事を書くわけにもゆかず、
この記事を書いたのでした。



「詳しいことは次回以降に書く」と書いていますが、

この後どんなことを書いたのか思い出せませんし、もしかすると何も
書かないままブログが削除されてしまったかもしれません。



結局、ブログ『人間嫌いのゲイの日記』に投稿した記事のうち
原稿が残っていたのは4つのみでした。



いま思えば、『人間嫌いのゲイの日記』は、私が初めて自分自身の悩みに
ついて打ち明けた場でした。


当時は、ブログが流行っていた時期で、ブログが双方向性のある情報発信
ツールとして活用されており、私の拙い記事にコメントを下さる方も多く
いらっしゃいました。



当時の私の生きる理由は、

『自分の秘密、悩み、ダメな部分を誰にも漏らさず墓場まで持ってゆくこと』

しかありませんでした。


人一倍長生きをして、自分の素性を知る人間がこの世から誰一人いなく
なって、終いには自分自身もすっかりボケちゃって自分のことを全く
思い出せなくなるのを理想としていました。


そして、そうした理想を抱く自分をひどく嫌悪し、

「このままではダメだ」

と危機感や罪悪感に押しつぶされそうになっていたように思います。



そうした意味では、自分の素性を少しずつ漏らす場、いわばガス抜き
の場としてブログには一定の意義がありました。


このブログを書いた2年後くらいに、私のダメな部分が一気に露呈する
こととなるのですが、当時の私はそんなこと知る由もありません。


仮に、ブログでのガス抜きを経ずに2年後の『自分の価値の大暴落』を
経験していたとしたら、果たして自分は耐えられただろうかと思います。




しかし、一方でガス抜きを行ったことに対して否定的な考えも持っています。



先ほど、私はこう書きました。


“当時の私の生きる理由は、

『自分の秘密、悩み、ダメな部分を誰にも漏らさず墓場まで持ってゆくこと』

しかなかった”


では、今の私の生きる理由は何かというと、特に何もありません。



しかも、生きる理由がないことについて、

「そういう人もいて当然だし、たまたま自分が“そういう人”になっただけ」

と、妙に達観しちゃっているんですね。



自分を偽ろうとしていた頃の私には、暗いエネルギーが満ちていたように
思うのですが、

自分のダメな部分が露呈してしまった後は、すっかりそのエネルギーが
無くなってしまいました。




精神科の診察室で

「年を重ねるにつれて隠し事が増えるような気がして、つらいです。」

と打ち明けた日の主治医の反応が忘れられません。



多数のメディア取材を受ける県内有数のクリニックを30代で開業した彼は、

心の底からあきれた様子で言いました。




「そんなの誰だってそうだよ」





私ってばかだな、先生の言うとおりだと本当に思います。


誰だって後ろ暗い部分はあって当然で、それを隠そうとするエネルギーを
学業や仕事にぶつけるからこそ、ひとかどの人物になれるのです。


ダメな部分をひたすら隠して、将来いい仕事をするために邁進していれば
そっちの方が結果的によかったんじゃないのかと反省する自分がいます。



くだらない自意識のために人生を無駄にした。


“ガス抜き”なんて言って、あたかも自分の意志でダメな部分を小出しに
したように書いているが、本当はただの“ガス漏れ”だったんじゃないか。

自分ではコントロールできない衝動に駆られて、うっかりブログで余計な
ことを書いちゃっただけじゃないか。


ガス漏れの結果の大爆発ならあまりに情けなくて笑えない。



今となっては、そういう否定的な思いが強くなっています。



もっとも、こうして思い出話のように書いて自省することができるのは、
ダメな部分が露呈する経験を経たからこそできるのだ、

ということは十分に理解しているつもりです。


ダメな部分が露呈して、落ち着くところに落ち着いたというだけの話
なのかもしれません。


“落ち着いた”ことについて好評価をする人もいるでしょう。




しかしながら、“落ち着く”ということは、つまり、

『現在の自己像をある程度不変のものとして受容すること』

ですから、


自分嫌いの私には到底受け入れ難いことなのです。



結局、つくづく私は自分が嫌いなんだなと、話が最初に戻って
しまうのでした。


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人間嫌いの自分を変えるべきか

『人間嫌いの就職活動』
『人間嫌いの進路選択』

に続いて、人間嫌いと仕事をテーマに書きます。



人間嫌いの自分を変えるべきか、これは非常に難しいテーマであります。

と言いますのも、悩みの種類によって結論が異なると思うからです。


よって、今回は、

「新卒の就職活動の準備のために、人間嫌いの自分を変えるべきか」

に絞って考えます。



「人間嫌いの自分は果たして就職できるのだろうか」

このような不安を抱えている方もいるでしょう。


私などは、高校生の頃は

「人間嫌いの自分は、社会に出ても40歳くらいで淘汰される」

と考えていました。

大学に入ってからはますます悲観的になり、

「いや、そもそも社会の入口の時点で淘汰されるかも」

と考えるようになりました。



職場にもよるでしょうけれど、就職してから先は人間嫌いを直す
必要が出てくる場面もあるかと思います。これは一概には言えない
でしょう。


では、就職活動の準備のために人間嫌いを直す必要があるか、
となると、私は必要ないと思います。


まず、高校生の場合、就職は成績順に応募できる求人が決まる
はずですから、人間嫌いであるかどうかと就職できるかどうかは
強い関係があるとは思えません。


人間嫌いを直すことに時間を割くより、勉強に時間を割いた方が
ずっと就職のためになるでしょう。



大学生の就職活動の場合はどうか。


たしかに、大学生の就職活動で『人間好き』だと得をする場面は
多いように思います。


結局、最後は面接官に気に入ってもらえるかどうかですから。

それに、自分の「やりたいこと」を探す過程でいろいろな人と
話をする必要が出てきますし、やはり熱意を大人に伝えることが
得意な人というのは就職活動において優位性があると言えます。



しかし、人間嫌いの人がわざわざそれを矯正して『人間好き』に
なろうと努力する必要はないだろうと思っています。



大学生の私は勘違いをしていました。

まず第一に、「人間好きか嫌いか」なんて面接で問われることは
ありませんでしたし、人間好きであることを企業側が要求している
ようには思えませんでした。


おそらくは『人間好き』であることは自明の前提であって、いちいち
確認する必要はないと考えられているのでしょう。加えて、人間好きか
嫌いかというより、『人間好き』の人が通常持っているような
対人スキルを備えているかどうか、が要求されているように思いました。


では、その『人間好き』の人が通常持っているような対人スキルを
磨くための努力は必要でしょうか。


私は必要ないと思います。


大学生の私のもう一つの勘違いは、

“自分比”でしか物事を考えていなかった点にあります。


私は対人スキルを少しでも高めようと私なりに努力したつもりでしたし、
私なりに成長を実感したこともありました。


しかし、

『私が成長しているあいだ、周りの人間も成長している』

という事実を見落としていました。



私が必死になって社交性0から30に上げているあいだ、

もともと社交性が高い連中は50から80に上げているわけです。


勝負になるはずがありません。



就職活動のエントリーシートは「自分ストーリー」を書くことに
なっていましたし、面接でも「自分の具体的なエピソード」を語る
ことが求められていました(今は違うのかな)。


ですから、私は「自分を変えることこそ大事」と考えてしまい、
相対的な視点を失っていたんですね。



『同じ川を流れていては、後を流れる丸太は、永遠に前の丸太を追いこせない。』
(秋元康『趣味力 (生活人新書)』 NHK出版、2003)


残念ながら、人間嫌いが頑張っても、根っからの人間好きに追いつくことは
できません。


「もともと人間好きの素質を持っていたものの、酷いイジメに遭ったことに
よってその素質を開花させられなかった」というような例外を除き、まず
無理です。




それでは、人間嫌いはどうすればよいでしょうか。



『丸太を川から引き上げ、初めての世界を通り抜けてみよう。
 人生が変わるという褒美が必ずついてくる。』
(同書)


対人スキルを身に着けるために特別な努力をしようなどと考えないで、
自分の得意なことに集中した方が身のためです。


大丈夫、社会の入口で必要とされる最低限の対人スキルは、充実した学生
生活を送る中で自然と身に付きます。


くれぐれも最低限以上のものを求めないようにしましょう。


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人間嫌いの進路選択

前回の記事、『人間嫌いの就職活動』は主に人間嫌いの大学生へ
向けて書いた記事でしたが、今回は人間嫌いの中高生へ向けて、
人間嫌いと仕事について書きます。


前の記事の中で、

「昔の自分を振り返って、冴えない音楽教師を諦めたのは仕方ない」


と書きましたが、
これは大学生の自分へ向けて書いたものであって、高校生の自分
へ向けて書くとすれば内容も異なります。


なぜなら、大学生の場合、どの学部へ進学したかによって
その後の職業選択の大まかな方向性が決まってしまうので、
大学卒業後の職業選択を考えるにあたって、大学入学以前(正確には
学部選択以前)にさかのぼって考えても意味がないのに対して、
高校生の場合はいろいろな可能性があるからです。



もちろん、大学卒業後に大きな進路変更をする人もいますから、
その可能性を否定するものではありません。


ただ、「一般論として可能性があること」と、

「自分にとって可能性があること」は全く別物ですから、その点は
注意した方がよいかと思います。


とりわけ、人間嫌いの皆さんは、

「人間嫌いの自分にとってその可能性はあるか」

を慎重に考えた方がよいでしょう。




さて、高校生の話に戻ります。


結論から言いますと、高校生の頃の自分にアドバイスするなら


「音楽の道に進み、最低でもさえない音楽教師を目指して頑張れ」

「ただし高校の勉強は人並み以上にできるようにしておけ」

と言うでしょう。


なぜなら、どこへ行っても何をやっても苦労するのが人間嫌い
だからです。どうせ苦労をするなら、好きなことをやって苦労
した方が良いのではないかと思うのです。





加えて、私の個別的な事情もあります。

高校生の頃の私は、人並みに家庭を持つことに全く興味は
なかったし、ひとりで孤独な貧乏生活を送ることにも抵抗は
ありませんでした。


音楽で失敗し、惨めな生活を送ることになっても構わないと
思っていました。


少なくとも当時の私にとって、音楽で失敗することのリスクは
ほとんどなかったわけですから、挑戦してみても良かったのかな
と思います。



「ただし高校の勉強は人並み以上にできるようにしておけ」

の助言には、大学卒業までに人間嫌いでなくなった場合に備える
意味があります。


高校生の頃の私は、自分が近い将来に普通に家庭を持ちたいと
思うようになる可能性もあると考えていました。
(だから音楽の道に進めなかったのです)


仮に音楽大学に進んだとすると、卒業後に一般企業に就職するのは
かなり厳しくなります。ましてや、対人関係が苦手で不器用な
人間ならなおさらです。


そこで、大学卒業後に公務員試験を受験することを視野に入れて、
高校の勉強にしっかり取り組んでおくことには一定の意義があり
ます。


公務員試験は国家公務員総合職等のハイレベルな試験を除いて、
出身大学や学部で差別を受けることは建前上ありませんし、
実際にも出身大学や学部はほとんど考慮されないはずです。


筆記試験の成績に重きが置かれる採用試験なのです。
よって、音楽大学卒にもチャンスがあると考えられます。


公務員試験の一般教養試験には高校卒業レベルの問題が出題され
ますから、高校の勉強を真面目にやっておくと良いというわけです。



もっとも、以上の話はあくまで高校生の頃の『私』にアドバイスを
するならばの話であり、個々の事情が異なれば、助言の内容も当然に
変わってきます。決して一般論として鵜呑みにしないでください。



たとえば、

「自分は絶対に家庭を持つつもりはない、孤独な貧乏生活OK」

と高校生の時点で確信を持てる人にとっては、後半の公務員試験の
くだりはまったく関係ない話となります。



次回も、進路選択に関する話題について書く予定です。


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プロフィール

人間嫌い3級

Author:人間嫌い3級
日本の片隅でひっそりと暮らす人間嫌いです。
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