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人間嫌いのゲイは6年後どうなったか(下ネタ注意)

(注)エロ目的で書いているわけではありませんが、
下ネタが書いてあります。ご注意ください。



私は2007年頃まで『人間嫌いのゲイの日記』というブログを書いていました。



私は小学生のころから、

「女々しい」だの「オカマっぽい」だのしょっちゅうバカにされていましたが、
いわゆる初恋は小学5年生の頃、相手は女の子でした。


私が自分のことをゲイだとぼんやりと認識するようになったのは中学3年生
くらいのころからです。


きっかけは中学2年生の宿泊研修だと思います。


男子浴場で私の男性器の発育が同級生より遅いことがわかり、そのことが
強く印象に残りました。とりわけ隣のクラスのY君の大きなサイズには興奮
と興味を覚えました。


だからといって、Y君に対して恋愛感情を抱くことはなく、むしろその後
気になり続けたことは「自分のおチン坊が小さい」ことです。


この辺りは誰にでもよくある話だと思います。


ただ、ちょっと変わっていたのかなと思うのは、女体よりも男性の体に性的
関心が向いていたこと、また、エッチなことを想像する際に女性だけを思い
浮かべることはほとんどなく、男性(自分ではない)とセットになっていた
ことです。


ほかの人がエッチなことを想像するときにどんなことを考えているのかは
知りませんけれども。



最初の転機が訪れたのは、高校(共学)に入学してからです。

我が家にインターネットが開通し、エロサイトを見られるようになりました。


私が高校時代を過ごした2000年前後は、私の検索技術の拙さもあるのでしょう
けれど、ストレートの男性向けの無料のアダルトコンテンツは少なかったよう
に思います。


むしろ、無料で提供されるアダルトコンテンツはゲイ向けのものの方が充実
していたのではないでしょうか。


高校生ですから、有料コンテンツには手を出せませんでした。なので、
入手のしやすさも手伝っていつも無料のゲイポルノを中心に見ていたのです。



また、運動部に所属している男子生徒の体つきが逞しくなっていくのを見て、
ガリガリで貧弱なカラダしか持ち合わせていない自分に引け目を感じるように
なったのもこの頃です。


引け目を感じるくらいなら体を鍛えればよかったのでしょうけれど、それが
できませんでした。



なぜなら、私は自意識過剰、かつ何でも一人で抱え込む性格であるため、
自分が劣等感を持っていることを絶対に親にも同級生にも知られたく
なかったので、家でも外でもトレーニングができなかったのです。




小さなおチン坊、情けないカラダ・・・



自分に対するコンプレックスが増大するとともに、美しい男性の身体への
関心がどんどん高まっていきました。



10代後半から20代前半まで自慰のネタはほとんど男性の画像・動画でしたね。

1人プレイのものを見ることが多かった気がします。




22歳の頃にブログ『人間嫌いのゲイの日記』を書き始めたのですが、この頃の
私は、“ゲイ状態”といって差し支えないと思います。


“ゲイ状態”と表現したのは、上記のように男性の身体に強い性的関心を
抱きつつも、実際に男性と性的接触を持ったことはなく、また、特定の
男性に恋愛感情をもったこともない、


要するに、
生身の男には興味がなかったため、自分の
ことをゲイだと宣言することには不適切だと思うからです。



こうした事情がありつつも、とりあえずブログでは自分のことを

『人間嫌いのゲイ』と名乗ることにしたのでした。



ところで、生身の同性に恋愛感情を持たないのならば同性愛をめぐる葛藤は
生じないだろうと思うかもしれませんが、そんなことはありませんでした。


もちろん、自慰のネタを何にしようと勝手ではありますから後ろめたさを
感じる必要など全くありません。個人の内心の自由です。


しかしながら、恋愛感情というオブラートに包まれていない、いわば
“裸の性欲”と向き合うこと、しかもその裸の性欲が同性の方向を向いて
いる、という事実を目の当たりにして私はそれなりに悩んだのですよ。



さて、人間嫌いのゲイに次の大きな転機が訪れたのは2009年頃です。



就職活動にことごとく失敗した私は、大学を卒業してしばらくして
実家へ帰ることとなりました。




それで、実家で何をしたかというと筋トレと“チントレ”です。



「自分が就職できないのは劣等感が強すぎるからだ」


「劣等感を克服するために筋肉とおチン坊を鍛えなければならない」


「おチン坊を鍛えて就活に勝つ!」



私は本気でした。

たぶん社会の中で居場所を見つけられなかったことへのショックから
思考回路がいかれてしまっていたんでしょうね。




話は逸れますが、世界各地での過激なデモに比較的若い男性が参加して
いるのをテレビなどで拝見して思うのは、

『若い男が暇を持て余しているとロクなことを考えない』

ということであります。




さて、本題に戻ります。


私は肉体改造計画を実行に移しました。



筋力トレーニングによる体重増量については『体育の科学 2007年3月号』を
参考にして自分一人で行いました。


実は、筋トレを試みたものの筋肉がつかない、という経験を高校卒業後に
何度か経験していました。


それでも、筋肉がつきにくい体質だと諦められなかった私は、学術雑誌を
参考にして、ひたすら食べ、トレーニングに励みました。


目指すはアスリート体型。


精神科の主治医の「体重を増やすなんてやめておきなさい」という助言を
無視して、理想の体型を得るために邁進しました。




半年後、私の体重は約9キロ増えました。


ただし、増えたのはほとんど脂肪だけ。



すっきりしていた私の腹部は、トレーニングの結果、皮下脂肪でダブダブに
なってしまいました。


指導者のもとでトレーニングを行えば筋肉がついたのか、それとも体質なのか。





一方、チントレについては、インターネットで購入したマニュアルを参考に
エクササイズを行いました。


いわゆるミルキングという手法で、牛の乳を搾るようにおチン坊をギュギューっ
と絞って引き伸ばすものです。




半年後、私のおチン坊は5ミリくらい長くなりました。


しかし、おチン坊の皮がそれ以上に伸びて、私のおチン坊は包皮でブヨブヨに
なってしまいました。


皮は伸びないって聞いていたんですけどね。




ダブダブの腹に、ブヨブヨのおチン坊・・・



本当に落ち込みました。


どれくらい落ち込んだかと言いますと、当時書いていた
ブログ『人間嫌いという才能』に投稿する記事が全く書けなくなるほど
落ち込みました(のちに閉鎖)。





ところが、醜い身体を得たことによって私の意識が少しずつ変わりました。



「腹部の皮下脂肪は落とすのが難しいし、伸びた包皮は戻らない」


「もはや私の理想の身体は手に入らない」



そう自覚したことによって、


今まで必要以上にこだわっていた、情けないカラダや小さいおチン坊に
ついて諦めがついたのです。



そうすると、男性の身体に対する性的関心が薄れていき、自慰のネタに
することはなくなりました。


もっとも、この背景にはストレート男性向けのアダルトコンテンツが
以前と比べて入手しやすくなったことも考えられます。




これは一つの自己解釈にすぎませんが、私の男性の身体への性的関心は

同性愛ではなく、自分への劣等感からくるもの、つまり、


『ないものねだりの極致』


だったのではないかと思っています。




私としては、同性と恋愛がしたかったわけでなく、

ただ美しい肉体を我が物にしたかっただけ、

我が物にできると思い込んでいただけ、


なのかもしれません。



そうした願望が叶わないことが身に染みてわかったとき、私は
はじめて等身大の自分というか、自分の身の丈を知った気がします。


長い長い思春期が終わったのかな、そんな風に感じたのを
覚えています。



そういうわけで、いまの私は主観的にも客観的にもゲイと名乗るのは
ふさわしくないように思います。




人間嫌いのゲイは6年後、ただの人間嫌いになりました。



正直言って、セクシャルマイノリティーや性的指向の問題に対する
関心は以前よりだいぶ小さくなっています。


それでも、記事として書き留めておこうと思った理由の一つは、


今後もし同性に恋愛感情を持ったときに、できるだけ『性的指向』と
いう思考の枠組みから自由になって、自分の感情そのものに向き合い
たいからです。


もう一つの理由は、ひょっとしたら私と似たような状態の若い人が
いたとして、少しでも彼らの参考になればと思ったからです。




“性”をめぐる問題は複雑です。


性的指向が定まっていて一生変わらない人もいれば、途中で変わる
人もいて、


私のように、純粋に性的指向だけの問題というよりは他の要因が関係
しているように思える場合もあるでしょう。



なぜ、ヒトは他の生物と同様に異性愛の個体が大多数を占めるのか、
本当のところは誰もわからないはずです。


ヒトは地球上の他の生物と比較して複雑な思考が可能な脳を持って
いるのですから、性行動も複雑かつ多様になっていてもおかしくない
と私は思うんですけれどね・・・


その辺の“性”のメカニズムがわからない以上、当面の課題は、


どうすればセクシャルマイノリティーがコミュニティの中で受容され
るのか、


ということであるでしょう。



私にはそんな難しいテーマについて書く能力がありませんが、
私は次のことを心がけようと思っています。


複雑な問題を無理やり単純化したり、わかりやすい説明を求めるのでは
なくて、


“性”をめぐる複雑な問題を、複雑さを残したまま受け止める、

そのことを心がけたいです。



長くてお下品な話に付き合ってくださり、どうもありがとうございました。


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カミングアウト不要論

自分が昔書いていたブログの記事を転載して、
最後に今の自分がコメントを付けるシリーズ



人間嫌いという才能(2009年)から



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同性愛者のカミングアウトについては、その必要性の有無や、

その上手な方法など、様々な議論があります。


多種多様な議論があること自体は素晴らしいとだと思うのです。

しかし、私は以下の3点について問題があると考えています。



1.カミングアウトしたメリット・デメリットなど

  結果の話ばかりで、そもそも、カミングアウトがなぜ必要か

  その意義や、カミングアウトするに至った動機についての話が少ない。



2.カミングアウトについての個人的な信条や体験談を

  述べたに過ぎず、他の人がそのまま真似ができない、

  または、真似しても上手くゆく保証がない。



3. 1.2.ゆえに、カミングアウトの議論は、

  若い世代を惑わすだけの議論になっている。

   

そこで、この記事では、この3つの問題点をふまえて、


『カミングアウトをするかしないかの判断基準』


を、私の個人的な体験によらず『理屈』で考えることによって、

誰にでも通用するかたちで提示します。



以下が本文です。




まず、ここで言うカミングアウトとは、

同性愛の自覚が芽生えた者が、自ら同性愛者であることを公言すること、

と定義しておきます。



さて、私は、

『性的指向』は実在しない

性的指向の議論に惑わされるな


の記事で書いたように、『性的指向は実在しない』と考える立場です。



要点を述べると、

性的指向というのは、実体のある概念ではなく、多様な性愛を上手く

分類し説明するために人間が作り上げた説明概念である、

というのが私の立場です。




しかし、『性的指向』を分類することが全く無意味だとは思っていません。


性的指向という概念が残っている、言いかえれば、

性的指向という言葉が死語にならずに残っているのは、


何かの役に立つからだ、と考えています。

(参考記事:教育を受ける意味)




それでは、性的指向という概念は、一体何の役に立ってきた

のでしょうか。考えてみます。



たとえば、大昔、ユダヤ教では同性愛は罪とされていました。

現在も、いくつかの宗教では同性愛を禁じています。


(注:具体的に禁止される事柄は知りませんが、
   同性同士の性行為が禁止されているのは間違いないでしょう。)


このことから、宗教上の罪の内容を決めて、それを処罰するために

性的指向という概念が役に立ってきたといえるでしょう。



また、1990年にWHOが「国際障害疾病分類」から同性愛を

削除することを決議するまで、世界中で同性愛は病気として

扱われていました。


このことから、病気を特定して、それを治療するために

『性的指向』概念が用いられていたといえるでしょう。




そう考えると、性的指向の概念は、いちおう役に立ってはいたのです。


同性愛者を処罰するため、また病人として治療するために、

役立ってきたのです(悲しい話ですが)。





しかし、ここで大きな疑問が沸いてきます。


【『性的指向』概念は、はたして今の日本において役に立っているのか。】


という疑問です。


日本には同性愛を禁止する法律もないし、全ての日本人が同性愛を禁ずる

宗教を信じているわけでもないし、また治療可能な病気とも考えられて

いません。



だから、今の日本において、性的指向概念なんて何の役にも立って

いないのに、なぜ性的指向概念が残っているのか私にはサッパリ

わからないのです。



この本文の最初に、私は「性的指向は実在しない」と考える立場だ、

と書きましたが、



たとえ、「性的指向は実在する」という立場を取っても、

性的指向を区別することが、今の日本において全然役に立っていない

ことは明白です。



ですから、『性的指向』なんて、とっくの昔に死語になっていても

おかしくないのです。



加えて、性的指向というのは、

もともと異性愛者が同性愛者に対して罪人とか病人とか不名誉なレッテルを

貼るための概念なのですから、



セクシャルマイノリティが一丸となって


「性的指向なんて言葉は屈辱である! 今の日本において、性的指向

 を区別することには何の意味もない!」


と叫べば良いはずなのに、そういう運動の話を聞いたことがありません。




なぜなのでしょう。役に立たない分類が残っているのはなぜなのか、

私は真剣に考えました。




で、結論が出ました。


【性的指向を分類することは現に役に立っている】、

だからこそ残っている、という結論です。



そもそも、恋愛においては、異性愛者は異性愛者同士、

同性愛者は同性愛者同士、それぞれ出会った方が、カップル成立の

可能性が高くなります。



したがって、性的指向を分類し、

「自分の性的指向は○○です。」

と他者にアピールすることは、効率的にカップルを成立させるために

役立っている、と言えるのです。



なんということでしょう。

性的指向は同性愛差別を助長する屈辱的な概念でありながら、同時に

他ならぬ同性愛者に利益を与えているのです。

どうりで性的指向概念が廃れないわけです。



さて、以上の議論から、


『自分がカミングアウトをするかしないか。』


についての重要な結論が導かれます。



【同性と恋愛するつもりのない者は、カミングアウトしなくてよい。】


という結論です。



先に述べたように、今の日本においては、性的指向の区別は

カップル成立の確率を高める以外には役に立っているとは思えません。



したがって、同性と恋愛するつもりのない人は、その唯一のメリットを

受けることができないのですから、カミングアウトする必要はありませんし、

もっと言うと、性的指向を区別する必要すらありません。



「同性に性的興奮を覚えてしまった。自分はゲイと名乗らなきゃ

 いけないんだろうか?どうしよう~」


などと悩む必要はないのです。

それはそれとして心の隅に置いておいて、次の日からまた元気に学校へ

行けば良いだけの話なのですよ。



まとめると、


性的指向が実在する・しない、どちらの立場であっても、

現在の日本において、性的指向を区別することは、

効率的なカップル成立を促す意義しかないから、

同性と恋愛するつもりのない者は、同性愛をカミングアウトする必要はない。


となります。



(以上)

-----


この記事は、


愛と国家、自由またはそれらの制限(BLと同性愛とカテゴリー)

というブログの記事の中で、


「マイノリティーがマジョリティーに立場を
 理解されたがっているという心理を無視している」

とのご批判を頂いていました。



私が誰に向けてこの記事を書いたのかというと、


非リアのゲイの方々(特に若者)に向けて書いたのです。


充実したゲイライフ(とりわけ同性パートナーとの良好な関係)
を送っている人たちは沢山いて、彼らの中には、更なる充実した
ゲイライフとそれに対する社会的承認を求めている人たちもいるけれども、


全てのゲイがが充実したゲイライフを求める必要はないし、
性的指向の問題を心の中にそっとしまっておく人がいても全然かまわない
のではないですか?という問いかけをした記事です。



ちょうど、このころはリア充という言葉が流行った時期でした。

インターネット上ではなく現実の生活において、恋愛や仕事を充実させている人々

くらいの意味合いかと思います。



私は、リア充のみが主導となってセクシャルマイノリティーの問題を語る
ようなことがあっては困ると個人的に思ったので、


非リアのゲイを代表して?つい書いてしまったのです。


私にとっては、


「リア充のゲイが充実したゲイライフを追求することは認められる

 べきであるけれども、一方で、私のように非リアで、"ゲイらしい生活"を

 送るつもりのないゲイがいても特に問題はありませんよね?」


という確認行為だったわけです。



それでも、『性的指向などという概念が現代日本において残っている
のは、それが同性愛者の恋愛に役立つからだ』というのは今でもあながち
間違いではないと思っています。



先日、NHKの『探検バクモン "性"をめぐる大冒険』を視聴しました。

そこでは、男性同性愛者向け雑誌Badiの編集部が紹介されていたのですが、
1994年の創刊当時、もっとも重要な記事は、POST BOXという読者が
文通相手を募集する記事だったといいます。



やっぱり、性的指向の区別は恋愛のためのものなんじゃないか、
と改めて思った次第です。



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性的指向の議論に惑わされるな

自分が昔書いていたブログの記事を転載して、
最後に今の自分がコメントを付けるシリーズ



人間嫌いという才能(2009年)から



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前回書いた


『性的指向』は実在しない

の記事ですが、ゲイ専用トラックバックセンターに送信したところ、

削除されてしまいました。


まぁ、そのサイトの趣旨を考えると、こんなタイトルの記事が削除されるのは

当たり前と言えば当たり前なのですが、

けっこう気合を入れて書いた記事だけに残念であります。



どうも真意が伝わっていない気がするので、補足をします。


私は、同性愛の人間が実在しない、とは一言も言っていないのですよ。



「どうして同性愛という現象が起こるのか」


という問いに対して、


「それは人にはそれぞれ性的指向があって、・・・」


と答える人がいるけれども、そもそも『性的指向』というのは、

誰かがその存在を仮定した『説明概念』ですよね、と言っているのです。



ここで注意してほしいのは、私は「説明概念だから悪い」と言いたいわけでは

ないのです。


「性的指向というのはあくまで『説明概念』であり、この世に実在することが

 確認されたものではない。」


と、前置きをした上で、性的指向について語った方が良いんじゃないですか?

と言いたいのです。



なぜなら、特に若いうちは、

「言葉に表されたものは実在するものだ。」

と素朴に勘違いしがちだと思いますので、


悩みを抱える若者に変な誤解を与えることは、私は特に避けたいからです。



私自身、誰かがでっち上げた説明概念に惑わされたり、悩まされたりするのは

たいへんな苦痛です。



もちろん、説明概念は便利なものですし、その例として私が

「数字」を挙げたことからもわかるように、人間の文明は概念を操作する

ことで発展してきました。



ですから、概念的思考能力は人間の重要な能力であると私は考えています。

便利な説明概念はどんどん活用すべきです。


しかしながら、説明概念の中には結果的に災いをもたらすものもあるのです。


私は、そのような災いをもたらす説明概念はできるだけ排除したいのです。




たとえば、大昔の人は、今で言う台風や地震を

『たたり』という説明概念を用いて説明していたと聞きます。


その『たたり』という説明概念があったせいで、いけにえにされた人や動物がいた

ことを思うと、当時の科学の水準を考えれば仕方がなかったと思う一方で、なんだか

やるせなくなってしまうのです。



性的指向についても、同じ種類のやるせなさを感じます。


『性的指向』という説明概念を実在のものと信じている人が多いために、

不当に苦しめられている人がいる気が私はするのです。



未来の保健体育や家庭科の授業では、


「今で言う××や○○は、21世紀の初頭まで

 『性的指向』という説明概念を用いて説明されていました。

 そのため、様々な性的指向の分類が考案され、新しい分類ができるたびに

 新しい偏見や差別が生まれました。」


「なぜそんな説明概念が定着したのですか?」


「それはとても良い質問ですが、同時に答えるのがとても難しい質問です。

 それに答えるためには、そもそも教育の機能とは何か、われわれが使う

 言語の性質とはどのようなものか、言語によって世界を分類することには

 どんな意味があるのか、そうした話をひとつひとつ積み上げねばなりません。

 今度時間のあるときにお話しましょう。」

 
というようなやり取りが繰り広げられる、そんな空想を私はしています。



(以上)

----



さて、私が2つの記事で書きたかったのは、『性的指向』について深く考えなく
ても良いということでした。


「同性のAさんを好きになった」という体験をしたとき、特に若いうちはいろいろ
なことを考え、戸惑うのだろうと思います。


しかし、なぜ戸惑うのか、その原因として考えられるのは、


1.「思春期になると異性への関心が生ずる」などと学校の授業で教えられるから

2.学校で教えられたことと自分の身で体験したこととの矛盾について、
  セクシャルマイノリティーの諸先輩方が『性的指向』という小難しい概念を
  使って説明されるから。 


の2つだと思っています。


そうすると、


異性愛者ならば、異性に好意を抱いたとき、すぐにその素の気持ちと向き
合うことができますが、


同性愛者は、同性に好意を抱いたとしても、素の気持ちと向き合う前に、
『性的指向』概念について自分なりに整理しなければならないことになります。


これは、思春期・青年期の若者にとって気の毒なことだと思うのですよ。

小難しいことを考えずに、「同性のAさんを好きになった」という気持ちに
素直に向き合うことができればいいのにと思います。



ただ、ハートネットTV シリーズ多様な“性”と生きている

の第1,2回を見て(6月10日に再放送があるそうです)

この記事を書いた4年前の私は、心配しすぎだった、被害妄想だったのでは
ないかと思いました。


性的指向概念が細分化、複雑化されると新たな差別が生まれ、私のような
中途半端なマイノリティーはいっそう排除されるんじゃないかとの恐怖が
4年前は確かにありました。


でも、先のテレビ放送を見た限りでは、あいまいな性も含めて多様な”性”を
受容しようという趣旨の内容になっており、


4年前の私が心配していた方向へ議論が進んでいるわけではなさそうです。



ところで、この記事に対しては

塵も積もればヒキコモリ状態 by おがたけ

というブログの記事の中でコメントを頂いています。



実は、この記事を書いたころの私は、

知った気でいるあなたのための構造主義方法論入門

という本を面白がって読んでいました。



『説明概念という説明概念という・・・、と無限後退ができる』との指摘を受け、


なんだか私の思考方法が見透かされているように感じたのを覚えています。



なお、この記事を書いて以降、哲学の勉強はまったく進んでおりません。

今日、昔の自分の記事にコメントを付けるにあたってまた勉強してみようかと考え、


ホモセクシュアリティをめぐって──「社会構築主義・本質主義論争」の一側面

を読みはじめたものの、途中で投げ出してしまいました。



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『性的指向』は実在しない

自分が昔書いていたブログの記事を転載して、
最後に今の自分がコメントを付けるシリーズ



人間嫌いという才能(2009年)から



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『性的指向』は実在しません。


よく考えてみてください。

『性的指向』というのはどこにも存在しないでしょう。


性的指向は自分の心の中にも、自分の身の回りにも存在しません。



実在するのは、


1.異性あるいは同性のことが好きな人間

2.ある人が異性・同性を好きになるのは自分がヘテロ・ホモセクシャルだから、

  と『説明』する人間


だけです。



実は、性的指向の議論とは、

性的指向というものがあると仮定すると、異性を好きになる人もいれば、

同性を好きになる人もいるという出来事を、うまく『説明』できる、

というだけの話なのです。



つまり、『性的指向』というのは多様な性愛を『分類し説明するための道具』、

言い換えれば『説明概念』にすぎません。


性的指向というものが世の中に実在しているなんて事はあり得ないのです。



いきなり『説明概念』と言われても、ピンと来ない人もいるでしょう。


ですから、説明概念について少し補足をします。


最もわかりやすい説明概念の例は『数字』です。


まさか、0とか1とかの数字が世の中に実在しているわけはありませんよね。


ただ、実在はしていないけれど、0とか1とかいう数字があると仮定すると、

言い換えれば、数字という説明概念を用いると、世の中の様々な出来事が

うまく説明できる、それだけの話なのです。



数字と同じように、性的指向も説明概念です。


性的指向という説明概念を用いると、異性を好きになる人と

同性を好きになる人がいるという出来事を、

うまく説明できる、それだけの話なのです。



そう考えると、性的指向というのは、世の中の出来事をうまく説明するために

誰かがでっちあげた説明概念であり、実在しません。

よって、そんなもののために一般人が悩まされる必要など本来は全くありません。



「自分はゲイなんだろうか。」

「ゲイだと名乗らないとダメなのかな。」


なんて悩むのはバカバカしいですし、時間がもったいないです。


繰り返し述べてきたように、ゲイというのは、同性を好きになったという

自分の身に起きた出来事を説明するための道具なのです。



当たり前の話だと思われるかもしれませんが、

説明概念とそうでないものの区別って、意識しないと出来ないものですよ。

実体の無いものに悩まされないようにしたいものです。



(以上)

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ハートネットTV シリーズ多様な“性”と生きている

の第1,2回を視聴しました。


セクシャルマイノリティーの子どもたちがテーマでした。

見ていて思ったのは、子どもたちにとって、悩みを受け止めてくれる
一人の大人の存在はかけがえのないものだということです。


番組中でゲストの臨床心理士が、


「思春期の性は、自分が性同一性障害なのか同性愛なのか、もわっと
 漠々とした感じであるため、“あなたは男なの女なの”などと突き
 付けたり決断を迫ったりするのではなく、あいまいな性を自然に受け
 止めてあげることが大事」


というような主旨のことを話していましたが、私もまったくその通りだと
思いますね。


この点、4年前と今とで私の考えは変わっていません。


同性を好きになったとか、自分の性別に違和感を感じるとか、
そうした自分自身の気持ちに対して真正面から向き合うのが望ましいで
しょうし、素直な気持ちを大事にして欲しいと思います。


しかしながら、その気持ちを抱く自分に対して同性愛だの何だのと
レッテルを貼って説明することとはまったく別の話であります。


レッテルを貼るのは思春期のずっと後でいいんじゃないでしょうか。



ところで、この記事には続きがありますので、そこでもう少し詳しく
書きたいと思います。



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多様な“性”と生きている ハートネットTV6月の特集

NHK EテレのハートネットTVの放送予定を見ていたら、

6月の特集シリーズは、多様な“性”と生きているのようです。


ぜひ、拝見したいと思います。



そういえば、このブログではまだ同性愛や性的指向に関する記事を

書いていませんでしたが、4年くらい前までは、性的指向は私の

主要な悩みの1つでした。


早い人ですと10代半ばでこの悩みに決着をつけることを考えると

私はかなり奥手というか鈍くさいのでありますが、仕方ありません。


というわけで、6月は性的指向について、過去の記事にコメントを

しながら改めて考えたいと思っています。


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プロフィール

人間嫌い3級

Author:人間嫌い3級
日本の片隅でひっそりと暮らす人間嫌いです。
アラサー。

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