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(10代の若者へ)人は変われるか

自分が昔書いていたブログの記事を転載して、
最後に今の自分がコメントを付けるシリーズ



人間嫌いという才能(2009年)から


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(10代の若者へ)人は変われるか


高校の卒業式を終えて、3月の残りをゴロゴロ過ごしていた。


ある日、でたらめにテレビのチャンネルを回していたら、
高校野球中継が目に留まる。



そのまましばらくの間、高校生が画面の中で走る様子を眺めた。

選手全員が私より年下であることに戸惑いを覚えた。



遠くで洗濯機の音が聞こえる。当たり前だが、洗濯機のリズムは乱れない。

開いた窓から吹き込んでくる風はまだ冷たいけれど、風のにおいから
今日の天気が良いことと、雪がすっかり解けていることがわかった。



試合を見ているうち、私ははらはらと泣き出してしまった。


「こういう大舞台を経験すれば私は変われるのかな」


ごく普通に学校生活を送ってきたつもりなのに人並み以下である現状が、
情けないやら、悔しいやらで泣いてしまったのである。





大学時代はずいぶん背伸びさせてもらった。

私にとっての「甲子園経験のようなもの」も確かにあった。




でも、私は変われなかった。




「人は変わる」

というのは本当かもしれないが、


しかし、

「自分の力で、自分の望みどおりに変えることができる」

こととはまた別の話だ。



もっとも、私の場合、どう変わりたいのか明確でなかったのだけれど。




とりあえず、

「『今の自分とは違う何か』に変わりたい」

とか

「『明るい性格になりたい』『リーダーシップが取れるようになりたい』」

程度の漠然とした意識では、望む自分には変われないことだけはわかった。




それから、

「なにか貴重な経験ができれば人生が望ましい方向に変わる」

というのは、いま思えば単純すぎて笑うしかない。




言うまでもなく、変わるためには大きなエネルギーが必要だ。

人によっては、そのエネルギーを別のことに使った方が良いのかもしれない、

そんなことを思った。


私の場合、変わろうとしてエネルギーを使ったことの代償の方が大きかったから。




まあ、でも、無理やり話を戻すと、高校球児のエネルギーに溢れる
「最後の夏」的な経験って、側から見ていて気持ちが良い。


それに、彼らの「最後の夏」はこれから毎年更新され、深みを増してゆくと思うと
羨ましい気もする。



高校野球を純粋にゲームとして楽しめたとき、
私はまた少し大人になるのだろう。当分先の気がするけれど。


(以上)
----


春のセンバツ高校野球が開幕しましたね。


この記事を書いてから6年が経ちました。

最近は、ゆっくりテレビで高校野球を見ることができませんが、
仮に試合を見たとしても、私は、未だに高校野球を純粋に
ゲームとして楽しむことができないと思います(苦笑)。


「人は変われるか」

同じようなテーマで何回も記事を書いている気がしますが、
書くたびに内容が変わっている気がします。

とりあえず、2015年3月の私の回答は下記のとおりです。


「人は変われるか。」の意味が

「自己イメージや、他者から見た自分の印象を変えられるか。」

という意味なら、社会心理学の分野で多くの研究がされており、
詳しくはそれらを参照していただきたいのですが、

「変えられる。」

と結論付けて差し支えないと思います。


また、「人は変われるか。」の意味が

「自分の望ましくない行動や習慣を変えられるか。」

という意味なら、行動療法の分野で研究がされていますし、

「自分の望ましくない性格を変えられるか。」

という意味なら、人格心理学の分野になるかと思います。



・・・でも、当時の私が求めていたのは、そういう話では
ないでしょう。


ひょっとすると、私は「変わった」のかもしれません。

昔の私ならば、「人は変われるか。」という一文を見れば、
様々な思い出とともに、この一文の意味する正確な内容が
即座に想起されたのかもしれませんが、

今の私は、「人は変われるか。」という昔の自分が発した
問いの内容を確定させるために場合分けなどをして考えを
整理しなければならないようです。


少しずつ思い出してきましたが、
おそらく、「人は変われるか。」という問いには、

「今のままの自分じゃ生きて行けない。

 将来を楽観できるような自分になりたい。」


そういう問題意識があったのではないかと思います。


それを踏まえて昔の私に対して語るとすれば、


「変わらないと食べて行けないような状況になれば、
 人は変わるかもしれない。」

「そこまで切羽詰ってなくても、新しい社会的役割を
 担うよう求められる状況になれば、人は変わるかも
 しれない。」


「必要に迫られないとなかなか人は変わらないのだと思う。」

「もっとも、私のように鈍くさい人間は、必要に迫られて
 いることに気づかない場合もあるんだけれど。」


「社会人になった時のことを考えて、あらかじめ社会人として
 求められる規範や価値を身に付けて自分を変えようとする
 (一種の予期的社会化)ことが上手く行けば、社会人の入口
 としては及第点ではないか。私は上手く行かなかったんだけ
 れど。」


「もちろん、自分を変えることが上手く行かなくても、自分に合う
 環境に身を置けばなんとかなる場合もある。」


「自分を変えることができず、自分に合う環境に身を置くことも
 できず、ことごとく失敗して、いよいよ生活が成り立たなくなった
 としても、最後は生活保護があるから、安心して限界まで
 挑戦を続けてほしい。」


そんなふうに語るのかと思います。


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私が走る理由

今年度は、いったい何度走ったか分かりません。


「市民マラソンに出場した」回数とか、そういう格好いい
話ではなく、

「出勤時に、自宅から職場まで走った」回数のことです。


私は田舎に住んでおり、通勤のバスに乗り遅れると、
職場までタクシーに乗るか、走って通勤することになります。


今年度は冬場に雪の日が多く、タクシーを呼んでもなかなか
来てくれないため、職場までの3キロ弱の道のりを走った
日が多くありました。


「少し早めに家を出ればいいだけなのでは?」

と思う方がいるかもしれません。

そう、おっしゃるとおりです。
とても単純な話なのです。


でも、その単純なことがなぜかできません。


私は、中学生までは、集合時間に余裕をもって着くように
行動できる子どもでした。

しかし、高校生になってから、時間ギリギリか数分遅れて
着くという悪い習慣が身に付いてしまい、30歳となった
今も悪い習慣が抜けません。

さすがに職場に遅刻することはありませんけれども。


その悪い習慣がついてしまったきっかけは分かっています。


高校に入学して、私はクラスに友人ができませんでした。

そのため、朝の始業前の教室の雰囲気が、私にはたまらなく
辛かったのです。

朝、教室に入ると、クラスの皆は担任の先生が教室に入るまで
友達と談笑しているのに、私だけ一人ぼっちでした。


孤独感ももちろんありましたが、それ以上に、

「一人で浮いていると、いじめの標的になるかもしれない。」

「クラスになじめない生徒として先生にマークされてしまう
 かもしれない。」

という不安の方が強かったと思います。


休み時間は、適当に一人でどこかに隠れていればいいのだけれど、
朝の始業前はそういうわけにもいかない・・・

「朝の教室に一人ぼっちでいる状況をなんとかしたい。」


そこで、私が実行した解決策は、驚くほど情けないものでした。

それは、「始業時間ギリギリに登校する」というものです。

そうすれば、少なくとも担任の先生には一人で浮いている様子を
見られることはない、と考えました。

私は徒歩で高校まで通っていたので、歩く速さを調節すれば
簡単なことのように思われました。



私の作戦は的中しました。

はじめのうちは、担任の先生とほぼ同時に教室に入ることができて
いたのです。


ところが、次第に先生とタイミングが合わず、先生よりも遅れて
教室に入る日が増えてきました。

そればかりか、だんだん家を出る時間が遅くなっていき、走って
登校しないとと始業ギリギリの時間に間に合わないようになり
ました。


「始業より早く着きたくない、でも、遅刻もしたくない。」


不真面目なのか真面目なのか分かりませんが、私は毎日走って
登校していました。

担任の先生よりも早く教室に入れることもあれば、2分ほど
遅れて教室に入ることも多々ありました。



走っている最中に、足がもつれて転んだことが何度かあります。

砂埃にまみれて教室に入るのは恥ずかしくて、

「もっと余裕をもってギリギリに着けるようにしよう。」

と反省はしていたのですが、

そもそも「余裕をもってギリギリに着く」という反省の内容が
すでに日本語として破綻しているからなのか、反省が生かされ
ることはありませんでした。


私としては、
「クラスに話し相手がいない、いじめられるかもしれない。」
という不安の中で、なんとか自分を保つために精一杯だったの
でしょう。


そうした私の精一杯の対処の社会的な意味が分かったのは、
卒業式が終わってから、ちょうど今頃、3月の中旬です。


大学受験に失敗した私は、担任の先生のもとを訪ね、ある
お願いをしました。

そのお願いとは、簡単に言えば、

「予備校の受講料が割引になる推薦状を書いてほしい。」

というものです。


先生は、数日間検討した後、

「推薦状は書けない。」

との返事をくれました。

その理由は、

「君は遅刻が多すぎるから。」

という、たいへん理にかなったものでした。


私の不安に対する精一杯の対処は、3年間で約200回の
遅刻として記録されていました。


「たった2、3分でも、アウトはアウトであり、裏にどんな
事情があろうと、社会的には遅刻として意味付けられ、
記録される。」


私が高校3年間で学んだことで最もためになることでした。


もっとも、「学んだ」ことは「教訓として生かした」こととは
別であり、その後も私はことごとく手痛い失敗を重ねます。


その結果、成績表や履歴書という類の、私の存在を証明する
書類はひどいことになってしまいました。

あ、唯一、戸籍に限っては未婚なのでピカピカにきれいです。


私の中では失敗じゃないんですよ。
ただ、やっぱりそれは私の中での話であって、世間的には失敗
なのでしょうし、また、記録上も失敗でしょう。


余談ですが、

「全てのことに意味がある。」

などという言葉を耳にすることがあります。


スピリチュアルなカウンセラーが私の履歴書を見て、

「全てのことに意味があるのです。」

などと言ったとしたら、ケンカを売られているとしか思えません。


さて、話を戻します。


推薦状を断られて、3年間、毎朝駆け上がってきた高校までの
坂道をとぼとぼと下りながら私は思いました。


「仕方なかった。2、3分の遅刻をするほかなかった。」


でも、私は知っていました。


同じクラスのMさんは、私と同じように友達がいませんでした。
隣町から電車で50分かけて登校しているため、始業の30分前
には学校に着いてしまうのですが、彼女は誰とも話さず、静かに
一人で本を読んでいるのでした。


また、隣のクラスのG君もまた、私と同様、友達がいませんでした。
彼は、毎朝登校するなり机に突っ伏し、一日誰とも話をせず、
休み時間は(授業中も?)ずっと寝ているのでした。


「遅刻をするほかなかった。」というのは、客観的には明らかに
嘘だったのです。そんなことは分かっていました。


それではなぜ、私はMさんやG君のように振る舞うことが
できなかったのか・・・

何度問うても分かりませんでした。


思うに、当時の私にとっては、たしかに

「遅刻をするほかなかった。」

のでしょう。



今の私は、いい意味で鈍感になったのか、話し相手がいなくても
全然平気になりました。


それでもなお、朝には自宅から職場まで走り、始業前ギリギリに
着くのはなぜなのか、

青年期に身に付けた悪い習慣はなかなか抜けないもだからなのか、

それとも、今の職場に対して何らかの不安があるからなのか、

肝心なことはやっぱり分からないのでした。


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高校の卒業式を思い出す

なんだか最近の私の記事は、私の備忘録みたいになって
おり、色々なことをゴチャゴチャ書きすぎていることに
気づいたので、今日は話題を絞って書きます。


高校の教師をしている知人から、

「『自分の卒業式に出席したくない』と言う生徒が一定数いて、
 そういう生徒に対し、出席するよう働きかけるのが大変だ。」

という話を聞いた時のことをふと思い出しました。


私自身は、高校の卒業式には出席しましたが、本当は出席
したくありませんでした。

卒業式の1週間前くらいから、自分のみじめな高校生活を
振り返って気が滅入っていて、卒業式当日も気分が悪かった
ですね。

そして、気分の悪さを周囲に隠すことなく、あえて不機嫌そうに
振舞っていたのを覚えています。

卒業式が終わったら、在学中にお世話になった人に形ばかりの
感謝の言葉をかけてそそくさと家に帰りました。



知人は、

「卒業式に出席するのは、自分への『けじめ』だと思う。」

と言いました。


私は、

「出席したくない!」と意思表示をして、先生と対話をする
中で自分の気持ちを整理できたら、それはそれで本人的には
「けじめ」が付いたと言えるのかもしれず、この場合、その後
の卒業式に出席するかしないかは、「けじめ」が付くこととは
無関係ではないか?

と問いかけました。


すると、知人は、
「気持ちの整理が付いたなら、卒業式へ出席することでそれを
 示してほしい。」

と答え、私はそれ以上の問いかけができませんでした。



私のようなコミュニケーション能力に乏しい人間は、しばしば
忘れがちなのですが、

「たいていの人は、リアクションを求めている」

んですね。


先生としては、卒業式に出席するよう働きかけたのだから、
生徒から何らかのリアクションがほしいと思うのは、ごく
当たり前のことなのかもしれません。

もっとも、そのリアクションは必ずしも卒業式への出席という
形でなくてもいいと私は思うんですけれども。


こうして考えると、私のように、周囲に何の意思表示もせず
一人で不機嫌な気持ちで卒業式を迎えるというのは、結局
何の「けじめ」も付かず、最悪である、という結論になりそう
ですが、

まぁ、10年以上も前の話です、追及しません。



私がこの知人の高校教師との会話で印象に残っているのは、

この先生が、

「お世話になった人への感謝」ではなく、「自分への『けじめ』」

という観点から卒業式への出席の必要性を語っていたことです。



十何年か前の3月1日、私は、

「仰げば尊し?、お世話になった人への感謝?」

「ムリムリ、そんな気分じゃないわー」

と思って一人で悶々としていましたが、当の学校の先生方は、
別にそんなことは期待していなかったのかもしれませんね。


「仰げば尊し」を歌うときも、

最後の歌詞は、

「今こそ別れめ、いざさらば」

じゃなくて、

「今こそ、分かれ目、いざさらば」

つまり、今が自分の人生の分岐点、ろくでもない学校生活とおさらば
する、そのくらいの気持ちで良かったんじゃないか、今になって
そう思います。

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人間嫌い3級

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日本の片隅でひっそりと暮らす人間嫌いです。
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